2016年09月19日

敬老の日

今日は敬老の日。
これから敬老会へ慰問出演に行くのですが、その前に。
僕の祖父母は四人とも他界しているのですが、今日は四人のことを思い出して自慢してみたいと思います。
敬老の日ってこういうことじゃないんだけど(笑)、滅多にしない身内自慢日記です。

父方のおばあちゃん。
かつゑさん。小学1年の時に亡くなったので一番記憶が薄いおばあちゃん。3歳から宝塚へ引っ越したので4年一緒に暮らしていたんだ。
最初の1年くらいは同じ家に住んで、それからは庭を半分削ってうちら用の家が建ったので、ご飯だけ一緒に食べてたのかな?
間違いもある記憶かもしれないけど、日本画とお花の先生で、庭にはケンザンが置いてあった。
優しいけどよく怒られた、そんな記憶。
お葬式で初めておばあちゃんがクリスチャンだと知った俺。教会でお葬式したんだ。

父方のおじいちゃん。
一番濃く接した房之助さん。
頭がよくて、不思議世界が嫌いでよく喧嘩した。あの頃UFO番組が流行っていたんだけど、おじいちゃんはああいう番組が大っ嫌いだった。バラエティー番組も嫌ってたなー。「テレビは嘘ばっかりついて人の笑いをとってる」って。ビートたけしさんとかおじいちゃんがいると見れなかった。
飛び級で東大に進学したとか、なんとか省に勤めてたとか、田辺製薬の役員だったとかなんかすごい人だったらしい。俺が知ったときはもう定年してたんだよね。毎日家にいて油絵かいてるおじいちゃんだった気がするから。
おじいちゃんは権威に反対主義で、賞とか全く興味がなかったらしく、おばちゃんは日本画との協会に入ったり、賞を授賞したりするたびに色々言われていたらしい。
そんなおじいちゃんなので、油絵画家として有名にはならなかったけど、腕は確かだったらしい。正岡子規や武者小路実篤と仲良しだったとか。凄すぎて遠い話です。
晩年は厚木のおばさんの家に住んでいたのですが、最後に会いに行ったとき、手を握る力が物凄くて、あの瞬間、色々喧嘩したけどすごく僕のことを思っていてくれてたんだと伝わってきて、忘れられません。
お葬式。俺は霊柩車の後ろにつくタクシーで写真を抱えて乗ってました。
青空でした。
この青空の下のどこにももうおじいちゃんはいないんだ。どこに電話かけてももう繋がらないんだ。そうか、死ぬっていうことはいなくなるということなんだ。と、初めて実感としてわいてきて、僕はタクシーの中で泣きました。
人の死を初めて実感した日。19歳。遅いですね。

母方のおじいちゃん、マサオさん。
東京のおじいちゃん。だいたいおばあちゃんが主役となるので、ちょっと印象が薄い。声に張りがある江戸弁で超人格者だったという記憶。
謡いをやってらしたんですよね、確か。
東京へ遊びにいくといつもお昼御飯は出前のお寿司。きっと心待ちにしてくれてたんだろうな。
おじいちゃんおばあちゃんの家は昔の作りで、トイレが廊下を通った離れたところにあって、床がぎしぎしいって怖かった。
おじいちゃん、実家は大和屋という江戸上のお堀の中で商いを許された凄いお家だったらしい。だからおばあちゃんを嫁にもらえたんですね。

母方のおばあちゃん。みどりこおばあちゃん。
日野のお嬢様。新選組土方歳三の姉の家に生まれ、一時は女ながらに家を継ぐかと言われた人であったそうな。今は観光施設になっている日野宿が実家。俺が覚えてる頃はもうからだが悪く、杖〜車イスの姿しか俺は知らない。
アクションの仕事を始め、「○メートルから飛び降りたんだ!」など話すと「危ないことはやめて」と何度も言われた。
晩年はボケてしまったのだが、ちょうどその頃新選組の作品で全国を回っていて、土方ヘアーで東京へ幾度に、俺のことだけはいつも思い出してくれ、毎日世話してるおばさんや俺の母に俺のことを紹介するおばあちゃん。母やおばさんの気持ちは複雑だったといいます。
俺はおばあちゃんが大好きでした。
登別で忍者をしていたときに訃報を聞き、だけど身内の別れに会えないのが役者だと思い込んでいた俺。先輩の杉浦さんが出勤前にそんな俺の様子を見て「おはよう。何かあった?」と訪ねてくれ、すぐに連休の手配をしてくれました。僕はその場で泣いてしまいました。先輩の優しさ、忘れません。

四人とも大好きです。
今でも大好きです。
この血の流れのなかに生まれてきて、俺は幸せ者です。
僕たちの血の歴史、しっかり僕が更新していきます。これからも見守っていてください。
おじいちゃん、おばあちゃん、向こうでもお幸せに。
posted by 青山郁彦 at 09:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする